志穂美悦子の若い頃!日本初のアクション女優誕生の秘話とは?

皆さんは、志穂美悦子さんをご存知でしょうか?

1970年代から80年代にかけて、日本初の本格アクション女優として一世を風靡した彼女の若い頃の活躍は、今でも多くの人々の記憶に残っています。

今回は、志穂美悦子さんの若い頃の軌跡と、アクション女優としてのキャリアの始まりについて詳しくご紹介します。

彼女がどのようにして日本初のアクション女優になったのか、その秘話に迫ります!

目次

志穂美悦子の若い頃!

志穂美悦子さんは、1955年に岡山県岡山市で生まれました。

彼女の家庭環境は非常にまじめで、父親は大蔵省印刷局勤務の国家公務員、祖父母は教師という教育一家でした。

幼少期の志穂美さんは、学級委員長を務めるような模範的な子どもで、運動神経も抜群でした。

中学・高校時代は陸上部に所属し、水泳も得意だったそうです。

当時の夢は学校の先生になることでしたが、ある出来事がきっかけで彼女の人生は大きく変わることになります。

それは、テレビドラマとの出会いでした。

『サインはV』(1969-70年)というバレーボールを題材としたスポーツ根性ドラマに感銘を受けた志穂美さんは、動きのある女優の仕事に憧れを抱きます。

さらに、『キイハンター』(1968-73年)という千葉真一さん出演のアクションドラマを見て、「女がアクションをしたらカッコイイだろう」と思うようになりました。

これらの経験から、志穂美さんは日本で女性初のアクション俳優になることを決意したのです。

志穂美悦子のアクション女優への道のり

志穂美さんのアクション女優への道のりは、1972年、高校2年生の時に始まりました。

彼女は、千葉真一が主宰するJAC(ジャパンアクションクラブ)を受験し、見事合格を果たしました。

しかし、この決断に対して父親からは猛反対を受けます。

志穂美さんは「アクションのできる女優になりたい」と涙ながらに説得し、最終的に父親の理解を得ることができました。

JACでの1年間の訓練は非常に厳しいものでした。

エアーマットに向かって飛び降りるスタント練習や、フィリピンのマニラ湾でヘリコプターを使った撮影など、過酷な経験を積みました。

この間、千葉真一さんから「お前ならできる」と励まされたことが、志穂美さんの大きな支えとなりました。

志穂美悦子の日本初の本格アクション女優誕生の秘話

1973年、志穂美さんは千葉真一主演の『ボディガード牙 必殺三角飛び』で女優デビューを果たします。

まだ高校生だった彼女は、この作品で初めてスクリーンに登場しました。

そして翌1974年、18歳で『女必殺拳』の映画初主演を果たし、鮮烈なデビューを飾ります

この作品の公開後、東映大泉撮影所には志穂美さんへの年賀状が大量に届くほどの人気ぶりでした。

「日本初の本格アクション女優」として脚光を浴びた志穂美さんは、当時のブルース・リーの空手ブームにも乗る形で一気にブレイクしました。

同年、特撮番組『キカイダー01』でマリ役を演じ、「悦ちゃん」の愛称で親しまれるようになります。

志穂美さんの特徴は、従来の女性剣劇の「エログロ」要素とは無関係な「お嬢さん的魅力」を持ちながら、「活劇」をこなすところにありました。

映画評論家からも、「女の情念とは無関係な存在感」を持つ「青春スター」として高く評価されました。

志穂美さん自身も、「どんな分野でもパイオニアにならないと意味がない」「2番手、3番手では遅い」という開拓者精神を持っていました。

さらに、ブルース・リーの悲しげな表情を意識し、「女が闘わなくてはいけないのは悲しいこと」という思いを表現しようとしていたそうです。

まとめ

志穂美悦子さんの若い頃の軌跡は、まさに日本初の本格アクション女優として映画史に残る偉業を成し遂げた時代でした。

高校生という若さで千葉真一氏のもとで厳しい訓練を積み、18歳で映画初主演を果たし、その後約15年間にわたって第一線で活躍された彼女の姿は、多くの人々に勇気と感動を与えました。

志穂美さんの開拓者精神と努力が、日本の映画界に新しい風を吹き込み、後に続く女性アクション俳優たちの道を切り開いたのです。

彼女の若い頃の活躍は、今でも多くのファンに愛され、語り継がれています。

志穂美悦子さんの軌跡は、夢に向かって挑戦することの素晴らしさと、パイオニアとしての覚悟を私たちに教えてくれる、貴重な物語なのです。

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