高田純次さんといえば、現在は「テキトー男」のイメージが定着していますが、実は若い頃から多彩な才能を発揮し、波乱万丈の人生を歩んできました。
今回は、高田純次さんの若い頃の経歴や、俳優になるまでの意外な道のりをご紹介します。
デザイナーから俳優への転身、そして現在の「テキトー男」イメージに至るまでの軌跡をたどってみましょう。
高田純次の若い頃はどんな人生?

高田純次さんは1947年に東京都で生まれました。
若い頃の高田純次さんは、現在のイメージとは異なり、実はかなりの努力家だったのです。
高校時代は「国領のニワトリ」というあだ名で呼ばれていたそうです。
これは、朝まで麻雀をしても元気だったことが由来だとか。
勉強面では、大学受験に失敗し1浪しても合格できず、最終的に東京デザイナー学院のグラフィックデザイン科に進学しました。
東京デザイナー学院時代の高田純次さんは、絵を描くのが得意で、グラフィックデザイナーやイラストレーターを志していました。
当時は横尾忠則さんや宇野亜喜良さんなどが活躍しており、「横文字産業」への憧れがあったそうです。
しかし、学生生活は決して真面目一筋ではありませんでした。
授業の最初だけ出席確認を受けて、その後は学校近くの喫茶店や銀座のジャズ喫茶で時間を潰すこともあったそうです。
また、2年生の夏には中古のバイクで日本縦断の旅に挑戦するなど、冒険心旺盛な一面も見せていました。
高田純次のフリーター時代と演劇への目覚め

東京デザイナー学院を卒業後、高田純次さんは「就職したくはないけどお小遣いはほしい」という理由でフリーター生活を送ります。
自動車教習所で来校者の写真を撮るアルバイトなどをしながら、20代前半を過ごしました。
そんな中、25歳の時に運命的な出会いがありました。
先輩に頼まれてある劇団のポスター制作を担当したことがきっかけで、通行人役として初舞台を踏むことになったのです。
さらに、自由劇場の『マクベス』を観劇し、演劇の魅力に圧倒されます。
この経験が高田純次さんの人生を大きく変えることになりました。
『マクベス』を見た1年後、自由劇場の研究生募集に応募して合格。
柄本明さんやベンガルさんなど、後に名を馳せる俳優たちと出会い、切磋琢磨の日々を送ります。
高田純次のデザイナーから俳優への転身

演劇に目覚めた高田純次さんでしたが、経済的な理由から一度演劇から足を洗うことになります。
結婚もしていたため、安定した収入を求めてサラリーマンの道を選んだのです。
宝石鑑定士の資格を取得し、ジュエリーデザイナーとして宝石卸会社に就職。
高待遇で働き、自身のデザインしたジュエリーも好評だったそうです。
しかし、30歳の時に人生の大きな転機が訪れます。
新宿の居酒屋で偶然、東京乾電池の柄本明さんやベンガルさんと再会したのです。
彼らの活躍を見て「俺、このままでいいのかな」と思い、1歳の子供がいたにも関わらず会社を退職。
200万円の貯金を頼りに、30歳で東京乾電池に参加し、俳優としての道を歩み始めました。
まとめ
高田純次さんの若い頃は、デザイナーを目指す学生時代から、フリーター、サラリーマン、そして俳優へと、様々な経験を積んできました。
現在の「テキトー男」のイメージとは異なり、若い頃は真面目にデザインの勉強をしたり、演劇に真剣に取り組んだりと、多彩な才能を発揮していたのです。
30歳での大胆な決断が、今日の高田純次さんを作り上げたと言えるでしょう。
彼の人生は、夢を追いかけることの大切さと、人生には何度でもチャンスがあることを教えてくれます。
高田純次さんの若い頃の経験が、現在の独特な魅力と個性を形作っているのかもしれません。
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